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週刊た~ちん♪

舎利尊勝寺(大阪市生野区)🏯大坂城の抜け穴❓️

2020/03/03 19:26 晩ごはん イベント 旅行・お出かけ 趣味

大阪市生野区舎利寺町の

『舎利尊勝寺』にお参りしてきました。

🚃JR大阪環状線「桃谷駅」徒歩25分。

🚃JR関西本線(大和路線)「東部市場前」徒歩25分。

🚏🚌大阪シティバス「生野区役所前」「生野区民センター前」徒歩5分。

聖徳太子の時代

聖徳太子さんゆかりのお寺です。

聖徳太子さんのお父さん用明天皇の時代の創建なので、

西暦585年~587年にできたことになります。

生野には当時、生野長者と呼ばれた豪商がいて、

この河内湖(今はない)の西岸あたりを治めていたそうです。

そこに巡回中の聖徳太子さんが来られて、こんな話を生野長者に聴きます。

「ウチにやっと子供が出来たのですが、この子がちっとも話をしません。声すら出さないので、もしかしたら、どこか悪いのでしょうか?」


聖徳太子さんは、その子に寄り添い、こう訊きました。

『そなた、前世で私に逢っておろう。前世では、そなたに舎利粒(お釈迦様のお骨)を3粒さずけた。それを飲み込んだままにしておるなら、それを今、ここに吐き出したまえ。』


子供は、それを誰にも言えず口を閉じたままだったのを、それを聴いて感動し、涙ながらに舎利粒を3粒吐き出したそうです。


そのうちの一粒が、法隆寺にまつられ、もう一粒が四天王寺にまつられ、もう一粒をまつるために、

この舎利尊勝寺が建立されました。

ご本尊に聖観音さま。

脇侍として、韋駄天さまと聖徳太子さまが、お祀りされています。

ただしお寺もご本尊も、応仁の乱後期と、大阪大空襲で焼失しています。


(↓魚体、境内の時報代わりに叩く魚の形の板。京都宇治の万福寺にもありますね。)

(↑黄檗宗ではこの形。これをグルリと巻き込んだ形にしたのが木魚です。)


戦国時代の戦乱

天文16年(1567年)に、細川晴元方の三好長慶(阿波徳島守護代)と、細川氏綱&遊佐長教の連合軍が、この地で争い、一帯は焼け野原になります。


この戦で完全決着したわけではありませんが、三好長慶が事実上、畿内を制圧して、日本に軍事政権をたてる一歩手前までいきました。

(三好長慶は、その後、親方である細川晴元と、そしてその後は、美濃から侵攻してきた織田信長勢と、長い戦いを重ねていきます。)

お不動さま。


江戸初期から黄檗宗に

その後、寛文16年(1672年)荒れ果てたお寺は、

京都宇治の黄檗山万福寺を建てた帰化僧(中国が明王朝から清王朝に代わる際に亡命してきた僧)の木庵によって再興されました。


以来、このお寺は黄檗宗という禅宗のお寺になっています。


この碑の後ろは、聖徳太子さんの頃は、河内湖の浜でした。

三十三ヵ所

嘉永年間(1848年~1855年)、このお寺を任されていた幸道和尚によって、境内に西国三十三ヵ所巡りが造られ、

実際に三十三ヵ所を廻らなくても、このお寺の境内で三十三ヵ所巡りが、できるようになっています。

まあ、そういうのは、ここだけではなく、近畿地方にはたくさんあります。

(京都の仁和寺の裏山の三十三ヵ所巡りなど)

この碑の後ろも、聖徳太子さんの頃は河内湖の浜辺でした。


抜け穴

しかしこの地域の都市伝説で、

三好vs細川氏綱の乱のあとの荒廃時~木庵さんによる再興までの間に、

大阪城(大坂城)からの抜け穴の出口が、このお寺に掘られたという話のほうが、有名ではないでしょうか❓️

大阪冬の陣と夏の陣で、豊臣方は、徳川軍と滅亡を懸けた戦をしました。

結果、豊臣家は滅亡しましたが、乱の最中、もしくは豊臣秀吉による創建時から、大阪城には秘密の抜け穴が掘られたという話はたくさん聞きます。


また孫の千姫を、秀頼に嫁がせていた家康が、大阪の陣に先んじて、

千姫救出のための抜け穴を城外から彫らせた説。

あるいは大阪城が出来る前、あの地がまだ石山本願寺だった頃、

信長軍の猛攻に備えて、当時に掘られたという話もあります。


舎利尊勝寺にある大きな岩をどかせると、そこから地下道が、大阪城の真下まで続いているというのです。


大阪城のどの辺から掘られているのかは、わからないし、

あったとしたら大阪メトロ🚇️(旧大阪市営地下鉄)の長堀鶴見緑地線の工事のとき、

この抜け穴は発見されていたはず。

またある方が言うには、長堀鶴見緑地線が、ひとまわり小さい車両なのは、

この抜け穴を避けて工事されたからだ、とか

ちょっと❓️🤔な説もあります。


ダーリンと二人で、抜け穴の入口(出口?)を探してみましたが、

もちろん❗️

わかりませんでした。。

o(T□T)o

ただ刈れ芝のあたりの歩いた感が、なんかゾワゾワと、変な感触がしただけ。あの下が空洞っぽい❓️

(確証なし❗️)


桑津街道

舎利尊勝寺の南隣が生野神社⛩️。

小さい神社ですが、人のいる社務所もあります。

ご祭神はスサノオ命。

さらに南に5分歩くと生野八坂神社。

こちらのご祭神もスサノオ命です。

舎利尊勝寺~生野神社~生野八坂神社と続く道は、

昔の桑津街道です。

今の近鉄上本町駅のあたりから、南東に延びていて、

河内湖の西岸を南に延びて、

今の国道25号線にあたる奈良街道に合流していました。


河内湖(消滅~大和川蛇行時代~河内平野の出現)

河内湖の場所は推定ですが、下のような位置です。

市内の生野区や平野区から東大阪市、大東市、八尾市のほうまで広がっていました。

太古は海で、紀元前のうちに淡水化し、平安時代には、ほぼ消滅して湿地体化しました。

そこに大和川が曲がりくねって流入して、人々を困らせていたのが、

元祿時代に大和川は羽曳野からまっすぐ堺に付け替えられ、

河内平野が出現することになります。

以降、綿花の栽培、河内木綿の生産が盛んになり

大阪は「糸へん」の町、繊維の町になっていきます。


上町台地

↑の地図の大阪市の『阪市』となってる細い部分が、

上町台地です。河内湖より海抜が高く、盛り上がっていて、そのすぐ西までが海でした。

四天王寺まで西から船で来れたといい、

遣唐船も住吉大社前の浜から出ていたのです。

秀吉の大坂城築上、また徳川時代の初期に、大阪の海はどんどん埋立られ、町ができていきました。


松屋町筋

いまの松屋町筋から西が海でした。

松屋町筋から東を向いて、谷町筋に向かうと、かなりの海抜差があります。

生魂神社から文楽劇場~日本橋1丁目に西へ向かうとすごい坂道になってますよね。

あそこが海岸線だったのですね。


谷町にある夕日ヶ丘の地名は、

あそこから海に沈む夕日が見れたから。


秀吉は海沿いに、お寺を集めさせたので、下寺町などが形成されていきました。

大相撲春場所(今年は無観客開催😫)の相撲部屋の宿舎になっているお寺が多いですよね。



後記

かなり歩いたので、鶴橋の古い喫茶店WAKOで、モンブランのケーキセット。

ダーリンはアイス珈琲、た~はメロンソーダ。




よく運動したあとは、

やっぱソーダがおいしい😋💕。





夕食

夜はお好み焼きをしました。

ひとり二枚たべます。




伝言板✉️💌

さっちーさま。

ありがとうございます😍。

さっちーさまの焼くバージョンは、つくれぽではなく、

さっちーさまの新メニューとしてUPしてくださいね🤩。

どのみち圧力鍋メニューって、あんましつくれぽもいただかないし、訪問者も少ないですから。

それに、た~は返れぽが苦手。

2週間、料理しないこともありますから😣。

テーブルクロスは、千日前の「とらや」の前を通ったとき、ひらめいたら買います❗️

551蓬莱本店の斜め向かいのあそこです😆。



伝言板✉️💌

こみゆうさま。

お客が神様だと思ってる人、いますからね。

ワガママぶると、相手が忖度してくれると思ってるんですよ。

そういう人からは、人が離れていくから、余計にお店の人なんかにだけ当たってくるんですね😫。

そんなときは、リーゼントパンのあの顔に変身しましょ❗️

おもろいオッチャン、よかったですね。



伝言板✉️💌

ミカ★ヅキさま。

ウチは実家の頃から雑種犬ばかりなんです。

なんか縁があるみたいで。

愛媛県では鍋焼うどん、アルミ鍋なんですよね❓️

たまたまじゃないですよね。



伝言板✉️💌

かんちゅさま。

チューリップすげえ❗️

プロ並みじゃんか❗️❕

黒門市場の南端の鶏屋さんで

一個100円のチューリップよく買いました。

黒門市場もガラガラだろなぁ~😫。


わが家ひな祭り🎎は、また後日UPします。

本日は長々とありがとうございました。🙏

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