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た~ちんのベタな晩ごはん絵巻

新撰組局長:芹沢鴨🦆大坂🏯狼藉帖

2021/01/22 00:41 晩ごはん お弁当 テーブルウェア イベント お買い物 旅行・お出かけ 趣味 健康

今回は、新撰組の大阪市内での史跡を、

主に初代局長の芹沢鴨の時代を中心に巡ってきました。


新撰組は、ちょくちょく大坂(今の大阪)に来ていました。

見廻り、金策、将軍の大坂経由の上洛のたびの警護などです。

京都から大坂に来るには当時もっとも速い乗り物は船でした。

(永田屋昆布店HPより)

伏見から船で淀川を下るのです。

大坂側の終点が、今の京阪天満橋駅近くの八軒家浜でした。

(永田昆布店HPより)

往時の淀川を跨ぐ天満橋と天神橋は、豊臣秀吉が架けたのですが、後に出来た難波橋を含めて大坂三橋といいました。


貧乏人は当然、徒歩ですが、お金がある人はみな船を利用しました。

旅館や両替屋、飛脚取次など八軒の店がならんでいたので八軒家と呼ばれました。

こちらは明治6年(1873年)から昆布屋さんになりましたが、それまでは旅籠でした。

今は川浜と八軒家の間に京阪天満橋駅と京阪モールが建っていて、ここから浜は見えません。

新撰組がよく使っていた旅籠「京屋」は、

現在は🧀チーズ屋さんになっています。



💰️芹沢鴨、大坂での金策

現在の京阪「北浜駅」から北へ架かる難波橋。

明治からは、ライオン🦁が座っています。

北浜のあたりは江戸時代から昭和にかけては金融街で、大阪証券取引所や多くの銀行の本店がありました。

もっとも大坂で幅広い商いをしていた豪商が鴻池善右衛門です。

今橋通り四丁目といえば落語にも住所が出てくるほど、鴻池善右衛門の本宅兼店舗は、庶民にも知れ渡っていました。

そこへ新撰組旗揚げ間もない芹沢鴨が金策にやってきます。


みすぼらしい浪人体の酒くさい男がいきなり二百両を用立てろというのを、善右衛門(十代目、幸富、当時22歳、後の第十三国立銀行頭取)は会いもせず、


番頭が5両つつんで追い返すように渡します。


それを芹沢は投げ返し、用立てするまで居座る❗️と言うのです。


😱善右衛門が、今の堺筋本町の大阪商工会議所の位置にあった大坂西町奉行所に駆けこんで(地下鉄1駅分)訴えでます😓。

奉行所与力の誰が言ったかは、わかりませんが

『会津藩お預りとか言う浪士隊じゃったらムゲにもできまいて。』

と言われた善右衛門、仕方なく芹沢に二百両💰️を渡しました😖。


実際、結党当初の新撰組はド貧乏で、芹沢のこうした乱暴な金策があったからこそヤリクリできていたそうです。


また揃いの羽織りを作るときにもカネがなく、芹沢は近藤勇を伴って、またまた大坂に金策に来ます。

鴻池から今橋通りを堺筋を東に渡るとあったのが、

天王寺屋と平野屋という二軒の両替商💰️。


両替とは、東日本が「金」、西日本が「銀」の経済だったため、この二つの通貨を両替して利鞘を儲ける商売で⚖️、江戸時代の初期、大坂で天王寺屋五兵衛という人が始祖だと言われています。

今橋通りを隔てて向かい合ってあった両替商が平野屋、平野屋も五兵衛と言い、

天王寺屋と平野屋、

五兵衛と五兵衛で、たして十❕

なので十兵衛横町と言われました。

芹沢と近藤は、平野屋に入り、百両の用立てを強要し、せしめました。その百両で…


京の大丸呉服店で、あの青い揃いの羽織りを仕立てました。

現在の大丸四条本店にです。

くしくも、土方歳三が少年時代に、

丁稚奉公していたのは上野の松坂屋❗️

あの羽織りを仕立ててもらった大丸が、

自分の古巣とも言える松坂屋と、

ホールディング・カンパニーをつくって、

この144年後(2007年)に経営統合するなんて夢にも思ってなかったでしょう。

※地図:た~ちん



🍶北新地、相撲とり斬殺事件❗️

文久3年(1863年)6月3日、取締りのため、またまた大坂に来ていた芹沢たちは、道をゆずらなかった😡として、大坂相撲の力士たちと口論になります😬。

芹沢が鉄扇で、力士を殴りつけたあと、今の北新地の妓楼で休憩していると、相撲とりが30人ばかりの集団で、芹沢に謝罪を要求して押し掛けてきます。

今の北新地のあたりには曽根崎川という小川が、堂島川から別れて流れこんでいて、しじみが採れたことから、しじみばし(蜆橋)という橋も架かっていました。


曽根崎川は埋め立てられて、存在しません。

上の写真の左手が今の北新地、ここが川でした。

橋のあった地点は、今は滋賀銀行大阪支店になっています。

ここで芹沢は、相撲とりを、斬り殺しました。

斬られた力士は、大坂相撲でも名うての強豪、小野川部屋の所属でした。

タニマチなどの後援者、贔屓の高級武士もいるかも知れません。

『や…やばいッ❗️😱』

そう直感したのは、まだ芹沢に頭の上がらない近藤でした。

近藤は、現場の北新地、蜆橋から

大坂西町奉行所まで駆け出します。

北新地から西町奉行所のある堺筋本町まで、

今なら地下鉄2駅半ぐらいの距離です。


「えらいすんまへ~ん❕えろうに御忙しい最中、またややこしい事、しでかしまして❗️」

(↑んな大阪弁やないやろうが…)

事件は、小野川部屋のほうからも奉行所に使者が来て、近藤には西町奉行所の与力「内山彦次郎」が応対しました。


内山彦次郎は、大塩平八郎と犬猿の仲だった西町奉行所の古参与力です。

ちなみに大塩平八郎が乱の以前に努めていたのは、東町奉行所のほうです。

こちらは天満橋ちかくの大阪合同庁舎第一館の場所にありました。


汗だくの近藤に応対した内山彦次郎。


『よっく吟味いたす❕』



『で、我らは、いかが致したら…』



『聴こえんかったか❔よっく吟味してつかわす❕』



『で、さしずめ我らは、いかが致したら…と。』



『ひかえ~いッ❕よっく吟味いたすと申しておろうが❕』


『………』

近藤は会津藩お預りの身分といえ、内山は幕府直参の旗本❗️口応えできようもありません。

事件が大きくなるか、収まるかは内山の胸三寸による処となってしまいました。

沖田総司から大胆な提案。。

迷う近藤❗️結論を出せない❗️芹沢の手前もある。


内山彦次郎は、結局、天神橋で乗っていた駕籠ごと斬りきざまれ、殺されました。

(明治にトラス橋に架け替えられた天神橋)


犯人については諸説あって、わかっていません。内山は悪徳与力としての批判的な記述も多く残っているので、もしかしたら芹沢の事件や、沖田は関係ないのかも知れません。


大坂、そして京で暴れまくった芹沢鴨も、

この相撲事件の約3ヶ月後に、壬生の屯所「八木邸」で近藤一派に粛清されることになります。


※今回のイラストには、た~ちんの描いたモノ以外に、

フリー素材イラストACから

Zさん(鉄扇もった芹沢鴨)

わっきーさん(近藤のバストショット)

レオンさん(沖田総司)

の画かれた作品を使用させていただいております🙏。

ありがとうございました。



大坂相撲とは…❓️

今の日本中で、開催される相撲は、

財団法人日本相撲協会が行ういわゆる「大相撲」ですが、

これは昭和の始めに、統一合併された組織です。

それまでは、大阪(大坂)には大阪相撲があり、大阪と近畿圏でしか開催しない大阪相撲協会が存在しました。

大阪相撲協会は、今の新世界に、国技館を所有していました。

今はありません。

現在のスパ・ワールドからメガ・ドンキホーテのあたりですね。

東京両国の回向院の境内にあった旧両国国技館(最後の名前は、日大講堂、1982年取り壊し、今のシティコア両国の場所)に、よく似ています。

大相撲として統一された後は、旭区(今は城東区)の京阪関目駅の前に、大阪『大国技館』も建造されましたが、これも空襲で焼け落ちて、存在しません。



大坂名物『押し寿司』

江戸前のにぎり寿司文化が花開く前、

18世紀の後半から、大坂には押し寿司文化が定着していたといいます。

お寿司を押しこむのに、箱を使うので箱寿司とも言われます。

北新地に蜆橋の写真📷️を撮りに行った帰り、

阪神デパートで箱寿司を買って帰りました。

ついでに、お大根の炊いたんも。

お味噌汁だけ作って、この日の晩ご飯に。

江戸前のにぎり寿司に、だいぶ取って替わられつつある押し寿司ですが、

なくなってほしくない文化です。



その他の晩ごはん🥢

山菜おこわ。



生麩の田楽と、鮭のお造り。



ガンモとほうれん草の炊いたん、シシャモ、もずく。



💌mielleさま🍒

上海焼売の紹介、ありがとうございます。



💌新クックパッドで『いいね』をくださる皆さまへ

レシピやつくれぽに、新クックパッドから「いいね」をくださる皆さま。

ありがとうございます。😍

私はまだ新クックパッドが、うまく使えていません。

それにマイページから見ると、最新いいねの方のハンドルネームは、わかるのですが、

「他3名」とかなってて、あとの3名様がどなただったのかが、わからないので、

返信もお礼いいねも、できていません。

すいません😢。



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